先送りにしているものを根こそぎやってしまったら、何が残るんだろうと思ったが、そんなことはなかったぜ。
色んなものにほだされそうになる一日だった。既にほだされてしまったのだろうか。空腹、貧乏、親の情、郷愁、慢心。これらを全て糧に。
人の悩みについては、決して笑わないようにする。
洒落になっている/なっていない、ではなく、悪気がある/ない、で判断する必要があるのがつらい/つらくない、だろう。雨が降っているが合羽は大丈夫だろうか?
しかしその届かない言葉をこそ、愛さなければならないことも。
今思い知った。届かない言葉に意味は無いと。
後悔するのは、自慢めいた言葉を吐いた後だ。嫌な気分になるのは、自慢めいた言葉を聞いた後だ。であれば、自慢めいた言葉そのものに対して、過剰に反応していることについて疑ってみたい。
自分が最もやりたくないことは、人を哀れむことだろう。この人はかわいそうである、といった完全な優越感ゲームの再構築が行われることについての違和感がある。それは、自分がそう思われたくないが、自分は哀れまれる存在かもしれない、それが怖いという気持ちの裏返しであることは論をまたない。哀れまれたくない。どうすればよいのか。
完全な解決は無いように思える。
ただ過剰に反応しなければよいのだが、過剰とそうでないものの区別はどのようにして付けられるのか。
口数が多かろうが少なかろうが、それはたいした問題ではない。後悔や反省といった言葉とも無縁である。目の前にあるものから逃れる為の没頭である。没頭は狂気を生む。キャラ作りに失敗している。こうした分散化された文章をひとまとめにする作業が必要である。
自分は絶対を信じて突き進む者よりも、絶対を信じられず、しかし突き進まずにいられない者に与したいと考えている。
「こんな夢を見た。」と言うからには、それらが特異性を持つものであるという自負のもとにあること。すべてまずは自己肯定より始まらねばならないこと。
自称変人に相対する場面での変人閾値がダダ上りする。その理由として、私が重度の自称変人であることの証左であると考えるようになった。このことは、その他自慰的自己卑下を行う際に使用される様々な言葉に適用されうるだろう。
特別扱いされたい魂胆が見え見えで、かつ、それを羨む自分の魂胆が見え見えなのである。さっきも「救い難い」などと書いていたのだが気づかなかった。それが自己憐憫で、醜いのだと言っている。ここまで来て本題にやっと入られるが、それはダメなことなのか? 醜いのが何故いけないのか? 自己憐憫はありきたりだからか?
ありきたりを嫌うなら、変人になりたいのだろう。しかしてそれは、かつては、他称だったはずだ。すなわち、どう思われたいかというコミュニケーション論につながって行く気がする。
今日の吉野家で、かけそばを食べた後に牛丼並を頼む人を見た。
駅の周りを歩き回るも結局良さげな店は見つからずじまいだったため、吉野家でもりそばを食べて帰った。顔がさらに遠景に近づいた。
明日から三日間の出張。しかしスーツを入れるブツがない。どうすればいいんだろうか。