March 2010
18 posts
先送りにしているものを根こそぎやってしまったら、何が残るんだろうと思ったが、そんなことはなかったぜ。
色んなものにほだされそうになる一日だった。既にほだされてしまったのだろうか。空腹、貧乏、親の情、郷愁、慢心。これらを全て糧に。
人の悩みについては、決して笑わないようにする。
洒落になっている/なっていない、ではなく、悪気がある/ない、で判断する必要があるのがつらい/つらくない、だろう。雨が降っているが合羽は大丈夫だろうか?
しかしその届かない言葉をこそ、愛さなければならないことも。
今思い知った。届かない言葉に意味は無いと。
後悔するのは、自慢めいた言葉を吐いた後だ。嫌な気分になるのは、自慢めいた言葉を聞いた後だ。であれば、自慢めいた言葉そのものに対して、過剰に反応していることについて疑ってみたい。
自分が最もやりたくないことは、人を哀れむことだろう。この人はかわいそうである、といった完全な優越感ゲームの再構築が行われることについての違和感がある。それは、自分がそう思われたくないが、自分は哀れまれる存在かもしれない、それが怖いという気持ちの裏返しであることは論をまたない。哀れまれたくない。どうすればよいのか。
完全な解決は無いように思える。
ただ過剰に反応しなければよいのだが、過剰とそうでないものの区別はどのようにして付けられるのか。
口数が多かろうが少なかろうが、それはたいした問題ではない。後悔や反省といった言葉とも無縁である。目の前にあるものから逃れる為の没頭である。没頭は狂気を生む。キャラ作りに失敗している。こうした分散化された文章をひとまとめにする作業が必要である。
自分は絶対を信じて突き進む者よりも、絶対を信じられず、しかし突き進まずにいられない者に与したいと考えている。
「こんな夢を見た。」と言うからには、それらが特異性を持つものであるという自負のもとにあること。すべてまずは自己肯定より始まらねばならないこと。
自称変人に相対する場面での変人閾値がダダ上りする。その理由として、私が重度の自称変人であることの証左であると考えるようになった。このことは、その他自慰的自己卑下を行う際に使用される様々な言葉に適用されうるだろう。
特別扱いされたい魂胆が見え見えで、かつ、それを羨む自分の魂胆が見え見えなのである。さっきも「救い難い」などと書いていたのだが気づかなかった。それが自己憐憫で、醜いのだと言っている。ここまで来て本題にやっと入られるが、それはダメなことなのか? 醜いのが何故いけないのか? 自己憐憫はありきたりだからか?
ありきたりを嫌うなら、変人になりたいのだろう。しかしてそれは、かつては、他称だったはずだ。すなわち、どう思われたいかというコミュニケーション論につながって行く気がする。
今日の吉野家で、かけそばを食べた後に牛丼並を頼む人を見た。
駅の周りを歩き回るも結局良さげな店は見つからずじまいだったため、吉野家でもりそばを食べて帰った。顔がさらに遠景に近づいた。
明日から三日間の出張。しかしスーツを入れるブツがない。どうすればいいんだろうか。
今日の脳内BGMです。
何ですか。
携帯からではうちにくいです。
February 2010
57 posts
というのは読者論に基づいた意見だろう。どういうことなのかね。それは作品なのかテクストなのかというレベルに落ち込むのでは。要するに自分の落ち度を認めなさい、清く正しく生きようねという有り難いご講話なわけだけれども、そういう一面もある。人それぞれだよね。個人的には、個人的にくだらないと感じたものをくだらないのはお前と断じられるぐらいならいちいち大変だろう。
くだらない詩を読むのは誰か。くだらないと思っているお前だ。
二種類のカレー、焼き鳥六本、エビスビール、グレンリベット。
OmmWriter #1
小説を書く為には、まず何をすればよいかということについて考えた。
ひとつは、辛抱強さを持つこと。そしてもうひとつは、最初に挙げた項目を完全に無視してしまうことだ。
これらは括弧にくるまれてしまう。小説の書き方。まず一人称を選ぶこと。キャラクターを作って走らせること。プロットをきちんと作ること。それだけでずいぶんと書きやすさが変わってくるはずだ。小説を書けない人間の小説については、腐るほど出版されて来ている。そうなると、腐るほど出版されないまま放り投げられている小説もどきも沢山あるというのは想像に難くない。
書くのが怖いのであれば、書かなければいい。書斎に入らず、原稿用紙の前に立たず、パソコンはインターネットのためだけに利用し、とにかく一篇書いてみろという脅しに負けないように、決して一生に一篇の小説も書かないままに過ごすこと。これが私に与えられた使命ではないかとさえ思えてくる。...
好みの問題だな、というのは他人との議論を断ち切るための言葉としては生産性に欠けるが、自分で自分に落とし前をつけるための言葉としては、大切にしていきたい。
自分が「良かった」というものについて「そうでもなかった、AがBなのが良くない」と言われた時の反応については慎重になりたい。自分はよくやってると思うが、もうちょっとスマートにやれるかも。
わかった。OmmWriterでやってみる。
髪を切りました。
13:00起床。何をしたか?
デザインを30くらい適用して、今のものに落ち着いてみた。ンモー
Nintendo DS を購入しようかどうか迷っては止めている。ゲームに割ける時間など今の自分に存在しているんだろうか? ゲームに割ける時間をこそ、捻出して行く必要があるのではないかとも言える。これは読書時間にも言えることだけども。だがちょっと待ってほしい。私という人間は、今Snow LeopardのDashboardを使ってTumblrへ投稿を行っている。なぜそれが出来たか? MacBookを買ったからだ。テンション的には、非常に高まっている。しかしンモー格安だったとは言え結構MacBookは高かった。そんなボクだから、更なる支出を抑える為に、ここは一つ我慢すべきじゃないか? といった方向で考える必要もある。
素直にOmmWriterやってりゃいい。
会社やサークルの飲みで彼氏彼女が親しそうにしているのを見てハンカチギリギリするのは、集団を乱すから空気を読んでくれないかななどという同調圧力と、嫉妬と、そういった負の感情を抱いている彼女のいない自分へのやるせなさが押し寄せてくるので勘弁して下さい。
「サバルタンは語ることができるか」が気になっている。薄いし、他のスピヴァクの本に比べたらきっと読みやすいはずだ。問題は、この「サバルタン」という語を敷衍できるかどうかにかかっている。そもそも、この題(「サバルタンは語ることができるか」)の意味が何であるかも。
言い換えによる整理は単純化を生むだけなんだろうか。
12:00頃起床。少し勉強して、街へ行き試験を受ける。
無視は無を意図する。だから怖い。しかし無であることそのものを、それとして受け取らざるを得ない時に明らかになる何かについて、考えなくてはならない日がきっと来る。
曲名で検索すると過去の自分の恥部が明らかになる。インターネットは脳そのものなんだなぁ。
転送テスト。
住めば都と思いたいなら、都に住め。それ以外は厳禁。住めば都るな。
人の催眠状態を解くことが出来ると思えるかどうかで、その人が傲慢であるかどうかが決まると考えている人間は傲慢。
自分に足りないのはネタとそうでないものを見分けた後の身振りだ。
反論の余地しかない抑圧的な言葉というのは確かにある。私は、そのような言葉を使わないで済むような心を持ちたい。言葉とは、人を縛り付けるものではなく、飛び立たせるものであるべきだ。
第一次産業に近づけば近づくほどよい、相手との距離が近ければ近いほどよい、という意見について、単純に首肯してしまいたくない、抵抗したい、という気持ちを感じた。お客さんとの距離が遠い職業に就いている人ほど、そういうのを考えがちになるように思う。定年後に農業を始めるようかと、一度は考えたことがあるかもしれない。
結局、第一次産業の実際を知らないのに、そう言ってしまうことについて、不信感を持っているのだろう。また、ごくごく個人的な不満と不安の現れなのかもしれないな、大変なのだなと考えた。
言葉そのものを単純に受け取ってしまうよりも、言葉を作り出す環境、その人を取り巻く環境について興味を向けてみれば、また違う。
しかし哀れみを抱いていなせとか、メタに逃げ込むとか、そういう短絡的なまとめに入ってしまいがちなので気をつけたい。
8:00起床。危険だったが、少し早く到着した。今日は飲み会があった。
3:10これから寝る。試験勉強がはかどらなかったが今日明日できっちりやろう。
7:30頃起きてうじうじした。ちょっと残業を多くやった。自転車のブレーキが嫌な音を立てているので心配だ。
1:20まだ全然終わってないけど、布団に移動する。
なってくれる、ではなく、これをきっかけとし、「いい加減」、存在しない抑圧から解放されてみてはどうか? ということ。
「だれにはなしているのだ。」これは案外クリティカルだ。よりクリアな形で、自分自身の抱えてきた抑圧を無効化出来る言葉になってくれる気がする。
はたと。私の「仮想読者」とは、いったい何者だったのか?
20:59眠いな。もしかすると戻ってくるかもしれないが。
これまで幾度となく失敗してきた人間に賭けるのは、とても難しい。
7:50活動開始。借金は男の勲章かもしれないが、返せる当ての無い借金は不味い。それだけは言えるだろう。