自称変人に相対する場面での変人閾値がダダ上りする。その理由として、私が重度の自称変人であることの証左であると考えるようになった。このことは、その他自慰的自己卑下を行う際に使用される様々な言葉に適用されうるだろう。
特別扱いされたい魂胆が見え見えで、かつ、それを羨む自分の魂胆が見え見えなのである。さっきも「救い難い」などと書いていたのだが気づかなかった。それが自己憐憫で、醜いのだと言っている。ここまで来て本題にやっと入られるが、それはダメなことなのか? 醜いのが何故いけないのか? 自己憐憫はありきたりだからか?
ありきたりを嫌うなら、変人になりたいのだろう。しかしてそれは、かつては、他称だったはずだ。すなわち、どう思われたいかというコミュニケーション論につながって行く気がする。
今日の吉野家で、かけそばを食べた後に牛丼並を頼む人を見た。
Debug Saltlake Again.
March 4, 2010